懴悔は悟りと一つ
法華経の結びの経典といわれる仏説観普賢菩薩行法経(観普賢経)に、「懴悔を行ずる者は、身心清静にして法の中に住せざること、猶お流水の如し」という一節があります。どうのうようなときでも反省や懴悔を忘れなければ、さらさらと流れる水のような、自在にして清々しい生き方ができるというのです。そして、その懴悔は究極のところ「諸法の実相を深く思念すること」と記されています。妄想や執着は離れて、ものごとの本当の相を観なさいというのです。ただ、それが反省や懴悔とどうつながるのか・・・この点が、少しわかりにくい気がします。
そこで、私がつねにかばんに入れて携え、ことあるごとに眺めている、ある「年表」についてお話ししましょう。
それは、宇宙と地球、そして生命と人間それぞれの成り立ちと歴史が完結に示された小さな年表です。「わたしの今いるところ、そしてこれから」と題するその年表(JT生命研究館発行)のはじめには、こう書かれています。
「宇宙が生み出したたくさんの星の一つとして地球ができ、地球に生じた海の中で生命体が生まれ、多種多様に進化した生命の一つとして人間が誕生したことを、近代科学は明らかにしました。私たちの中で、宇宙、地球、生命の歴史が重なり合っているのです」
私は、この年表を見るたびに、「われわれはこうしていま、ここにいるのだ」と、人間の存在や命の不思議を思います。同時に、あらゆるものが、はかりしれないほどの時と広がりのなかで、一つの大きな「いのち」を相互に育み、伝えてきた壮大な歴史を思います。ものごとに考えあぐねたときなどはとくに、「ああ、自分もそのなかの一人なのだった」と視野が一気に広がり、気持ちが楽になるのです。
現実を見ると人も事象もすべて差異がありながら、差別なくあまねく等しい絶対の真理の世界がある・・・その実相をかみしめて自己を省みる懴悔は、心身を浄化する悟りその元さえ思われるのです。
法華経、真精進
ここまで反省と懴悔をひとくくりで話してきました。なかには、宗教的な気づきや懴悔と、一般的な反省は意味あいが違うと思う人があるかもしれません。もちろん、宗教者の懴悔は精進に向かう克己心や忍耐においてより強いかもしれませんが、一般的な反省も上に向かって進むことだと思うのです。その。その意味で、反省も懴悔も、本質的には同じと受けとめています。
ただ宗教的な懴悔ということでいえば、心にきざす反省や懴悔の気持ちを内なる仏からの呼びかけと受けとめることもできます。観普賢経で「汝当に仏を念ずべし」と懴悔をうながす一節も、私たちが怒りや欲に負けそうになったときに、「自分のなかの仏を見つけなさい。真実の自分に帰りなさい」と諭す内なる仏からの声に耳を傾けることを教えているのでしょう。ときには広大な宇宙に心を遊ばせ、地球や生命の歴史を想う。人間と自分という存在のありように思いを凝らす。そうして、自分の内なる仏と向き合い、その声に耳を澄ませば、よりよく生きる心がととのっていくのだと思います。あとは、実践あるのみです。
日蓮聖人は「一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり」といわれました。 常不軽菩薩のその姿こそ、人のふるまいのお手本と受けとめられたからです。それは、懴悔とういう悟りを身で示す、最も身近な実践といえるかもしれません。
心の声に耳を澄まそう
心の声に耳を澄ますということ。
それは自分自身と向き合うことに他ならない。
私自身の声に常日頃からどれくい耳を傾けているだろうか。
私が私に叫んでいる声は、私に届いていますか?
日常の忙しさを言い訳にして、私自身を置いてけぼりにしていないですか?
私の声をしっかりと聞き届けてくれるのは、ワタシしかいないのです。
いつも精いっぱいに頑張っているわたし。
そんなワタシに、そっと耳を傾けてあげてみましょう。
2021年も、もう少しでおしまいです。
たくさんの出来事が今年もありました。
一年間お疲れさまでした。っと、自分自身にねぎらいの言葉を掛けてあげてみましょう。
ワタシからは、いったいどんな声がかえって来ているでしょうか。